はじめて「ローマ字国字論」をとなえた

Nanbu-Yosikazu(南部義籌)
(1840−1917)
土佐の生まれ.
大庭雪斎の「和蘭文語」(1855)の序文に「日本語は元来りつぱな言語であるにもかかわらず,漢字を交えて書くようになったため,乱れてしまつたのはなげかわしい」と書かれているのを読んでローマ字論者になったという.
1869年「修国語論」を大学頭・山内容堂に建白したのが,わが国のローマ字採用論のはじめといわれている.
1879年に,「以羅馬字写国語,並盛正則漢学論」(洋々社談,59−60号)を発表した.ここで,かなとローマ字の比較をおこなった.また,漢文の正則読みを主張している.
著書に,”Nippon Bunten Uhi-manabi” (1874), “Tosa ni Niki” (1894), “Abezyibumi no Itoguti” (1916) などがある.
文部省のローマ字の書き方をきめるときの原案を作った.(1874)
Nanbu San wa, Nippongo wa Nippongo rasiku kanzi ya kango ni torawarenai kakikata to iu imi de Rômazi o susumeta. Gyaku ni, Kanbun wa Tyûgokugo rasiku, “seisoku na yomikata” o susumeta no desu.